昭和51年08月06日 朝の御理解
御理解 第36節
「日本国中のあらゆる神を、みな信心するというが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
だんだん信心をお道の信心を分からせて頂いて、無類の宗教だということがだんだん分かって来る。これは私が助かる神様はこの神様だと。これはあの世この世を通して助けて頂く神様だと、例えばだんだん分かって参りますと、必ずそういう確信が生まれて参ります。おぼろげながら金光教の信心が素晴らしいと、例えば分かっておっただけでは、只おかげだけに確かにおかげが受けられるから。おかげが受けられるから、金光様の信心をしておるというのでは、そこの一心が出ません。
これは皆さんに私が強要するのではありません。これは私自身がおかげを受けた事なんです。私の方も何十年の信心をさせて頂いとりましたけれども、もう家中に様々な神様がお祭りしてございました。まぁ第一に大神宮様も大神宮様の中には、もう箱崎さんもござりゃ高良さんもござると、言った様な大きな大神宮様でしたからね。その中にこう納めてある。それから釜土の方に参りますと、真っ黒になった荒神様がお祭りしてございました。そぉれで毎日お花の水を換えて回るとがおおごつのごたったです。
だからせからしかけんでじゃありませんでしたけれども、私が北京から引き揚げて帰ってみて、今迄おかげ信心からこりゃ今迄の信心な間違うとった、ということに気が付いて本当の信心、真の信心とはというところに焦点を置いて、いわゆるもうおかげ頂くじゃない、真の信心が分かりたいという一心で、信心させて頂くようになりましたらね、もうすぐにこの一心が出ましたですね私は。そりゃもうお願いするとは金光様だけ、そりゃもうこれはね、一心が出らんと出来んです。
勿論あの仏壇も全部焼きました。大神宮様も荒神様も、全部天地金乃神様のいうならば御神徳の中に、一緒に入って頂く積もりで全部焼きました。もう様々な神様もお札も全部裏の畑で焼かせて貰うて、それをお土にかえって頂きました。仏壇なんかはちった勿体なかとそりゃ言いましたけれども、そりゃそんな事はない、改式をした以上は仏壇はいらんというので、全部焼き捨てさして頂きました。私はね一心を出すとすぐにおかげが受けられるというのは、私はそういう一心が出なければならんと思うですね。
だから皆さんにね仏壇を焼きなさい、大神宮さんやら取り払うてしまいなさいというのじゃないです。もうそうしなければおられない穂どしに、信心が分かるということなんです。金光教の信心がどの位に素晴らしいかということが、分かるということなんです。そしてもうこの方一心、この世でもながらあの世でも、金光大神の世界に住まわせて貰うて、あの世でも金光大神のお取次を頂いて、霊ながらにいよいよ安心の霊、喜びの霊としておかげを頂いていくという、確信が生まれて来るところからね。
私は改式がでけ、いうならばそういう一掃する事が出来る。もうさっぱり致します。お花の水をあっちもかえたり、こっちもかえたりするだけでも、いうならば手間が手間がというか一心がもうそこに、一心と言いながら一心が乱れます。そういう例えば私はおかげを頂いて、言うならば本当は信心がいよいよ分かって来た様に思います。そこから私だけではない、自他共に助かられる道が開けてきた。人が大坪さんと言う人もありゃ、私がお話に参りますと、大坪先生大坪先生と言われる訳です。
それで先生でもなか人に先生と言うちゃならんと、言った様な雰囲気まで生まれました。昨日壮年部会で、石井清さんが何時も見事なお話を致しますが、昨日はとにかくあの信心を習うと言った様な事では、何時まで経ってもほんな事は習われはせんて。自分が人に教えるという気持ちになると、もう絶対信心は覚えますよと、だから親先生が言われるあれもこれもと、全部というて覚える事はいらんからね、ここぞと自分で思うとこだけでもです一生懸命勉強する。
又人に教える教えられると教えると思うから、勉強しなければ教えられん。それを聞いてから確かにそうだと私は思いますよ。いつまぁでも習う立場じゃあっちゃでけん。示現活動に参画すると言った様な事は、やはり人にそれこそ親切愛をもって教えていく事です。それにはね、教えられるだけの勉強をする。だからそういう腹を決めたらどうしてもそこんところを追求していき、そこんところを研究してそして、自分がそこから生まれて来る体験を話さなければならんから、やっぱ勉強も人一倍する。
だから親先生が言われるあれもこれもということは要らん。一言だけで良いからね、石井清は腹を立てんと皆んなから、だんだん言われる様になりましたから、私は今日からもう不平不足を言わん、石井清になりたいと思うと発表致しました。もう本当にそれこそ手を打とうごと素晴らしい事でした。清さんあんたが腹を立てんということは有名だ。それにこれから不平不足を言わんという、石井清になったら本当に素晴らしかろう、又素晴らしい話が聞けるだろうねと言うて話した事でした。
例えば腹を立てんということに一心発起したんです。いわば今日の御理解でいうならば一心を立てたんです。又失敗しましたと言う様な事はこの人はなかですもんね。もうそこだけに絞っとるですから、もう絶対腹を立てれば心の鏡の曇る事と、御教えられておりますからね、心の鏡が曇ったらもうおかげは写らんです。生神金光大神様をへぇ唱えてそりゃもう腹の立つ様な、ぐうぐう言わんならん様な事もあったけれども。
それを辛抱して腹を立てんという風になってきたら、もう今度は腹立つ様な事を人が言うごとあるとが楽しゅうなってきた。もう以前は自分は人から軽う見られるたちで、人から馬鹿にされるたちだからそのたんびんに、グズグズした気持ちで何とはなしに腹が立っとった。もうこれは子供の時からそうだった。人に軽う見られるような面が自分にある。肩にかけ残されたり付け込まれたりする様な事を、面と向かっていわれる様な事がある。ところがそういう事が起こって来れば起こって来る程楽しゅうなってきた。
そこから生まれて来る、例えば腹を立てんと決めたところからです、もう全ての事がおかげをおかげになってきたがです、その事から生まれて来る体験を人に話すと、人までもはぁ清さんの話を聞いて助かったというて、言うて下さる様になったということなんです。教えられる訳です徹底するから。今度もいわば不平不足を言わんと決めたら、何とはなしに気持ちの悪ぁるい。これからもう不平不足を言われんと思うたら、何か何と言うて表現してよいでしょうかと言うて。
まぁ丁度飛行機からパラシュートを抱いて飛び降りる様な感じですと言うております。したら文男先生がほんなこつそうですよと言うてから言いよった。実際にそれを本気に一心を立ててやると言う事になったらね、確かそういう気持ちがするです。それが途中でパアッとパラシュートが開いて無事に着陸をする。もうそこには初めの間はスリルの様なものであったものが、慣れてくると人の出来ん事が自分で出来ておるという。喜びで一杯になってくるというんです。素晴らしいなぁと私は思うです。
皆さんだからあれもこれもということは要らんです。今日の御理解にね一心を出すとすぐにおかげが受けられる、一心を出すともう金光様の信心が本当に分からせて頂いて、あの世この世を通してもうこの方にお縋りしなければと、又あの世に行っても金光大神のお取次を頂いていよいよ安心の霊、喜びの霊としてのおかげを受けられる。もうこの方一心と決めたらならです、とてもとても大神宮様どん軽蔑するのじゃないですよ。家ん中ある様な事では一心が立ちません。
これは皆さんに強要する、先ずは信心が分かりなさいというのです。そして私の例を言っておる訳です。それから確かに真の信心がだんだん分かって来る様になったら、真の助かりにもつながり、人までも段々助かってくる様になったということです。こでその一心を出すということは、なら教えを行ずるということにおいてもしかりなんです。腹立てば心の鏡が曇ると仰せられるのだから。
曇ったらおかげは写らん。そこからいわばもう決して腹は立てんということに。昨日腹を立てん人が文男先生と二人でしたからね。まぁ共鳴しあえる話が共通点が出て来る訳です。んなら文男先生が話が素晴らしいというのはね、そういう事に徹底行じておるところからです、それこそ素人では分からんそのいうならば、大学なら大学の先生でもね、英語を担当する人、ドイツ語を担当する人、という風にありますでしょう。支那語を担当する人、だからどれもこれもじゃでけんのです。
だから英語なら英語本気で、ドイツ語ならドイツ語本気で勉強する。そして先生と言われるからには、人から突っ込まれるような事があっちゃでけんから、それをいよいよ追求して行く。清さんの場合文男先生の場合も同じ事です。そこからです思いもかけない体験が生まれて来る訳です。そこから他の教えに迄も触れてくる様な、おかげが生まれて来るんです。深めていくと深かぁいお話の意味が分かって来るのです。
昨日は食堂何ち言よったの、やよい食堂は、西原さんが見えとりました。もう昨日はもう憂欝で憂欝でどうにもやるせない、本当に合楽になっと行ってから、親先生の顔を見たらようなるじゃろと思うてやって来たげな。そしたげならいま夜の御祈念に私が出ませんもんですから、座ってなかったらがっかりしてから尚モヤモヤした。 そしてまぁ辛抱しとったら御祈念が済んで、九時頃から親先生がちらっと見えたから、もう親先生を見た途端に心がすっきりしたと言っております。
そして発表しておられましたがです、例えば親先生は大変歌がお上手だ、私も歌の稽古を若い時にした。いうならば三味線にのった稽古をちゃんとしとる、いわゆる我流じゃない。だから親先生が歌が上手ということを又私が上手、西原さんが言われるのですよ。だから普通の人は、はぁ上手だなぁと分かるだけ。ところが私が聞いておるとですねえ、はぁあの節回しはあぁいう風にいわんならんばいなあ、はぁあすこんところの三味線にのるぐあいは、はぁあすこにコツがあるんだなぁということが良うく分かるち。
信心も同じ事じゃないでしょうか。先生がお話は素晴らしいかち聞いとるだけじゃつまらんち。自分の信心を深めない限り親先生の言われる、本当の意味は私しゃ分からぬと思うという発表しとりました。これも私は本当にそうだなぁ素晴らしい表現だなぁと私は思いました。だからあれもこれもということは要らんから、清さんにおいて然り文男さんにおいて然り、腹を立てぬということを永年それだけでも、これだけのおかげを頂いてきた。それだけでも腹立てぬ先生ということになってきた。
だからこの事に限っては、誰にでも体験を次から次とお話する事が出来る。深めて行けば深めていく程、信心の有り難ぁいものを伴うてくる。その有り難いものには、必ずおかげが伴うてくるという訳なんです。漠然とあれも知りこれも分かった、そして行じはしないというのではね、つまらんと言う訳です。そして清さんじゃないけども、ひとつひとつ自分のものにしていく。今月を境に私は不平不足を言わん、この人ならやってのけるでしょうねえきっと。
けれども不平不足を言わんと決めた途端にです、何か気持ちの悪ぁるい、それこそパラシュートを抱いて、一番初めにやはり飛行機から飛び降りる時には、最善の度胸がいることでしょうね。そしてまぁだそのパラシュートが開いとらん様な感じのところらしいですけども、何かズーンとして気持ちの悪るぅいような、清さんそりゃほんなこつですよと言うて文男さんが言うとりましたがね。体験者じゃなからにゃ分からん。そしてパラシュートが開いた時に、それこそフワーッとした心が頂けて来る。
そこを私は有り難いと思うて聞かせて頂きよったら、庭がもうバサバサに渇いておるところに打ち水をしっとりとしておるところを頂いた、御心眼に。あの信心にはね、どうしてもこのしっとりとした気持ちが要るです。あれも知っとる、これも覚えとるというだけじゃなくてです、一つの事に徹していっておる内にです、心がしっとりとしてくるです。心がカサカサしとる時にゃそのしっとりとしたものがない時です、そのしっとりした心が神様と交流するです。
パサパサしよるところを箒でこうやって掃くと、塵がこうこう舞い上がるでしょう。如何に綺麗にしようとしてもね、それこそ気持ちの悪い事になってくるです。信心にはこのね、生き生きとしたいうならばしっとりとした、心の状態を願わなければいけません。この前の十三日会の時に、親先生のお話の中に葉緑素という話が出た。それで帰ってすぐ字引を引いてみたと清さんが言うとりました。葉緑素ということの本当の意味は、私はあの時に葉緑素というのは、これは私も知りませんでしたけれども。
高橋さんから聞かせて頂いた話ですけども、青々しとるものは太陽のいうならエネルギーですか、太陽熱を受ける、受けて行く働きをするという訳なんです。いうならば若葉青葉が太陽に向かってそのエネルギーを吸収するから、あぁいう生き生きとした青々としたことになるのです。もし太陽熱が受けられない床の下にあるごたると、ならもやしのごとなるです、それは陽を受けられないからです。生白うなってしまうという風に私は聞いて頂いて、いうなら青というのは元気な心と言われるから。
生き生きした元気な心が必要なんだという意味で話した。清さん帰って早速字引を引かせて頂いたところがですね、一切のものを自分に同化する事だと説明してあるそうです。素晴らしいですね。成程これならばいうならば腹を立てんとか、不平不足をいわんで済むだろうと思う。どんなに自分が白であってもです、赤でも青でも全部自分の心の中に、白なら白にしてしまう、赤なら赤にしてしまう、いうなら自分の心の根肥しにしてしまう一切を。どんなに不平不足を言わなければならない事でも。
不平不足を言わん、生き生きとした心。だから尚いよいよ生き生きとしてくるだけでなくて、自分の言うなら心の肥しになってしまう。葉緑素ということは素晴らしい事ですよと言うてそういう事を清さん話しております。だから年中腹を立てたり不平不足ばっかり言う人達が、心が肥える筈は絶対ない事が分かりますですね。心が肥えんです太らんです。そこにそうだと例えばそれこそパラシュートを抱いて、飛行機から飛び降りる位なひとつの決断心をもってですね。
一心を出すとすぐにおかげが受けられると仰せられるのですから。所が自分の心がパサパサしておる時には、生き生きとした喜びも何も頂かれません。掃いちゃおるばってん、てんで塵がこう返って埃りが立つ様な感じが致します。そこにしっとりとした私は心にならせて頂く為です、そういう時には於いて神様に向かうてこなければならん。言うなら西原さんじゃないけれども、今日はどうも朝からどうも気分が良くない、けれどももやもや腹が立ちなんかいかん、もう今日んごたつ時には合楽になっとお参りしてと。
そしてなら親先生に接した途端にです、心が潤うてきた。はぁお参りしてきて良かったと、そして心が有り難うなってきた。そしてそんな今お話しますように、有り難い体験発表がでける様な心が整うてきた。そういう心におかげが受けられる。だから私共の心の中にパサパサした様な感じの時には、心を一段と神様に向けて、一段んとそこに一つ修行の一つも思い立たせて頂くという様な心意気がね。有り難くもどうもない心が、言うならば砂漠の様な感じの時には、何を例えば植えても良い芽を切る筈はありません。
やはり自分の心がしっとりとしておる時。今日私は一心を出すとすぐにおかげが受けられるという、すぐにおかげの受けられる一心を聞いて頂きました。この36節を読ませて頂くと理屈だけは、皆さん分かるでしょうがね、芯というたら草木でも一つであるとかね、家を建てるのになら棟梁がおらなければでけない様に、又物事をあの人にも頼みこの人にも頼みすると物事を、相談にくれて物事はかどらずと。もう適切な御理解を以て説いておられますが、それはここ読んだだけでも皆さん分かるでしょうが。
だからそれを本当に自分のものにするためには、もう一段信心を進めて、金光様の御信心がどのくらいに本当なものか、有り難いものか、しかもあの世この世を通しておかげを受けなければ、ならないものかということが分かった時に、いわゆる金光様一心、改式をしなければおられない。恐らく仏壇やら神棚さんやらは片付けなければ、そうしなければおられない。決して粗末にするとか軽蔑すると言った様な事ではない。天地金乃神様のいうならば、中に全部包含してしまうという。
いうなら生き方を立てるという、それを実行した時があなた一心がたった時です。それをこんだ信心の上で申しますならばです、今文男先生と清さんの話と西原さんの話を致しましたがね、自分の心がサバついとる時には、心を神様に向ける修行をする。そして腹を立てんと一心を立てたら、本当に一心を立て抜かなければいけん。それがもうこの男はどげなこつ言うたっちゃ腹を立てんと、神様が認めなさったところから、もう絶対おかげはすぐに頂けるようになるでしょうね。
そしてそれをひとつひとつ増やしていくのです。清さんが不平不足を言わん、これが何年か先にゃ恐らく、不平不足を思わんと言う位なとこ位にはなっていくでしょうね。素晴らしいでしょうが。だからあれもこれもと言うこたぁいらん。一言だけでもよいからそれを徹底行じさせて貰うところが、信心が非常に深まる。その為には只聞く側じゃなくて聞かす側、いうならば信者じゃなくて、いうならば先生と言われるくらいなおかげを、例えば秋永先生の様な文男先生どんの場合なんかは。
あぁして先生先生と人から言われるでしょう。そして先生あぁたの話を聞かして下さいと人から言われるでしょう。だから心をいつぅも神様に向けとかなきゃ、信心の話というのは絶対出来るもんじゃないです。又話す体験も生まれないです。だから皆さん皆んながね、先生と言われるくらいなおかげを頂いておるとね、もう嫌がおうでも神様に心を向けなければおられないです。そういう一心を一つ立てなさいませよ。そこからね、すぐにおかげが受けられると仰せられますからね。
どうぞ。